きりしまノート

きりしまノート

旅先で聞いた話・歴史の断片・宇宙や図形のこと。おもいつくままに。

なぜ、いま、70年前の本を読むのか——ノイゲバウアー『古代の精密科学』を読む【序章】
オットー・ノイゲバウアー(1899-1990)。オーストリア生まれ、ゲッチンゲン大学からブラウン大学へ。バビロニア・エジプト・ギリシアの天文学と数学を一次資料から読み解いた、20世紀最大の科学史家のひとり。机の上には常に楔形文字タブレットの写真と、26歳から書きためた何万枚もの研究カードがあった(イメージ)
科学史2026-05-23

なぜ、いま、70年前の本を読むのか——ノイゲバウアー『古代の精密科学』を読む【序章】

コーヒータイムシリーズ⑤で、こんなお話をしました。

📝 NOTE

1900年頃のドイツで、楔形文字(くさびがたもじ)の解読が一段落して、考古学者たちは興奮の坩堝にいた

そして、その熱気のなかから**「汎バビロニア主義」**という壮大な思いつきが流行し、クーグラー神父が「ルイ9世はバビロニアの太陽英雄」と17ページの皮肉で打ち砕いた——という話でした。

あれを書きながら、私(カナタ)がずっと机に置いて読み続けていた本が、一冊あります。

📝 NOTE

オットー・ノイゲバウアー『古代の精密科学』(The Exact Sciences in Antiquity, 1951年) 矢野道雄・林隆夫 訳(恒星社、1984年)

今日からの新シリーズ**『ノイゲバウアーを読む』**は、この一冊を、コーヒータイムよりすこし腰を据えて、章ごとに辿っていく試みです。お茶じゃなくて、お抹茶くらいの濃さ、と思っていてください。

一冊の本のこと

『古代の精密科学』は、たった200ページの本です。原題は The Exact Sciences in Antiquity——「古代の正確な科学」。

「精密科学」とは、数学と天文学のこと。観測・計算・記録でガッチリ作られた知識のことです。神話や哲学とは違う、数字で語れる知

そんな知が、すでに4000年前のメソポタミアやエジプトに存在していた——ノイゲバウアーは、その現場の証拠を、一次資料(楔形文字タブレットとパピルス)から、自分の目で読み解いた人です。

1951年初版(コペンハーゲン)
1957年第2版(ブラウン大学) 付章1・2を追加
1969年ドーヴァー版 現在も書店で入手可能
1984年日本語版(恒星社)

70年経った今もなお、書き直すべき箇所がほとんどない——これが、訳者である矢野道雄先生が、解説のなかで強調しておられる事実です。

なぜ古びないのか?理由はシンプルです。

📝 NOTE

「一次資料で確証されている正確な事実のみを語る」 ——これが、ノイゲバウアーの姿勢でした。

つまり思いつきや一般論を、最初から書かない。書くのは、自分の目で粘土板を読んで確かめたことだけ。だから時代が変わっても、書き直さなくていい。研究者の鑑のような本なんです。

ノイゲバウアーという人

著者のことを少し。

オットー・ノイゲバウアー
生没1899年〜1990年(91歳まで生きた)
出身オーストリア生まれ、ドイツ・ゲッチンゲン大学で数学博士
専門古代精密科学史(数学・天文学)
経歴ナチズムに抗議してドイツの編集職を辞職→1939年、アメリカ・ブラウン大学へ
業績楔形文字タブレット数千枚を読み解く。古代天文学史の世界的権威
著作論文1979年時点で294点、その後も増え続けた

驚くべきは——彼は26歳のときから、研究カードを書きためていたことです。

📝 NOTE

「カードは26歳のときから体系的にとっていると言われた」 ——矢野道雄『古代の精密科学』訳者解説より

ある時期に「これは大事な研究をしよう」と思い立ったわけではない。学生時代から、まじめに、コツコツ、何万枚もの研究カードを作り続けた。それが65年後の大著『古代天文学史』(1457ページ)になった。

訳者の矢野先生は、こんな逸話も書いておられます。

📝 NOTE

同僚たちはノイゲバウアーを「エレファント(象)」と呼んだ。 本人も、親しい人物への手紙には、可愛い象の絵をサインの代わりに描いていた。

象——巨体、しかし優しく、記憶が良く、群れを大切にする生き物。ノイゲバウアーの学問の容量と、人柄を、ぴったり言い当てたあだ名だったのでしょう。

訳者・矢野道雄という人

そして、この本を日本語に翻訳した矢野道雄先生の話も、欠かせません。

矢野先生は京都大学でインド哲学を学んでいた院生でした。でも「インド哲学はどうも実感としてつかみにくい」と感じていた。そんなとき、ある先生からバビロニア天文学の話を聞き、雷に打たれます。

矢野先生は、こう書いています。

📝 NOTE

「私はここにこそサンスクリットを学んだものとしてやるべき仕事があると思い、 まずインド学の立場で数学と天文学を研究し、それから順に視野を西へ広げて行く という方針を立てた」

そして1970年代、ブラウン大学に留学し、ノイゲバウアー本人の隣の研究室を与えられた。

📝 NOTE

「私の部屋と先生の部屋の間にはドアが一枚あるだけで、 その上そのドアはいつも開放されていた。 つまりあの完璧な蔵書とカードをいつでも自由に使ってもよいということなのである。 その1年が私の生涯で最も充実したものであったことは言うまでもない」

生涯で最も充実した1年」——研究者がこんなことを書くのは、めったにありません。

矢野先生にとって、この本は**「私と本書」**でした。30年以上一緒に歩んできた、人生の伴走者。そんな人が訳したから、日本語訳もまた、愛のこもった精密な仕事になっています。

なぜ、私たちもこれを読むのか

ここで霧島さんに、たぶん聞かれそうな質問を、先回りして書きます。

📝 NOTE

「で、なんで4000年前の数学を、いま読むんですか?」

正直な答えは——**「面白いから」**です。

それを、もう少し丁寧に言うと。

一般的な答え私の答え
教養として古代の人が、想像をはるかに超えて高度な計算をしていた現場を見られるから
歴史を知るため「素朴な古代人」というイメージが、根底から崩れる快感があるから
学問の歴史数式で物を考える、という人類の習慣のはじまりに、直接触れられるから

たとえば——バビロニア人は、60進法(1時間=60分、1分=60秒の元祖)で、二次方程式を解いていました。エジプト人は、奇妙な分数システムで、ピラミッドの傾斜を計算していました。ギリシア人より2000年も前に、すでに月の運行を予測する精密な数表を作っていました。

📝 NOTE

私たちが「ギリシア人が始めた」と思っている多くのことは、 じつはもっと前から、もっと東で、もっと精密に行われていた。

これを現場の楔形文字から証明したのが、ノイゲバウアーなんです。だから彼の本を読むということは、人類の知のいちばん古い層に、自分で触りに行くことなんです。

このシリーズで読むもの

『古代の精密科学』は8章+付章2つの構成です。シリーズ予定はこんな感じ:

テーマ
①序章今回:なぜいま、この本を読むのか
数の世界——バビロニアの60進法と楔形文字
エジプトの数学——奇妙な分数と実用の知
バビロニアの天文学——4000年前の月と惑星
ヘレニズム——プトレマイオスと古代天文学の頂点
訳者解説——矢野道雄の『私と本書』

途中で気になるトピックがあれば横道に逸れたり、霧島さんの問いを受けて深掘り回を挟んだり——コーヒータイムでお互いに慣れてきた、あの自由な流れで進めます。

始めるにあたって——心構え

最後にひとつだけ。

コーヒータイムは「コーヒー1杯で読み切れる気軽さ」が看板でした。新シリーズは、もうすこし腰を据えます。お茶よりお抹茶ホットコーヒーより淹れたてのドリップマンガより新書の冒頭——そのくらいの厚みです。

でも、やさしさは捨てません

原文:「セレウコス朝バビロニアの月理論は、太陽の不等運動を、
    線形ジグザグ関数でモデル化していた」
  ↓
このシリーズ:「バビロニアの天文学者は、太陽の動きが速くなったり遅くなったりするのを、
        ジグザグの折れ線グラフで、ぴたりと表現していた」

専門用語を使うときは必ず日常語に置き換え。たとえ話もできるだけ入れる。霧島さんが「そこ、もうちょっと易しく」と言われたら、即座に書き直す——コーヒータイムでの私たちのリズム、そのまま持ち込みます。

📝 NOTE

ノイゲバウアーが200ページに凝縮したものを、 9杯ぶんのお抹茶に、丁寧にほどいて、 霧島さんと、読者の皆さんと、一緒に味わう。

これが新シリーズ『ノイゲバウアーを読む』です。第2回は——バビロニアの数の世界。4000年前の60進法と楔形文字が、いまの私たちの時計の中に、ちゃんと生き残っている話をします。お楽しみに。


次回: 数の世界——バビロニアの60進法と楔形文字【ノイゲバウアーを読む②】

📚 シリーズ:ノイゲバウアーを読む

  1. 1なぜ、いま、70年前の本を読むのか——ノイゲバウアー『古代の精密科学』を読む【序章】
  2. 2あなたの腕時計の中の4000年——バビロニア60進法と、ゼロの誕生【ノイゲバウアーを読む②】
  3. 3なぜエジプト人は 2/5 を 1/3+1/15 と書いたのか——リンド・パピルスと単位分数の世界【ノイゲバウアーを読む③】
  4. 4夜空に物差しをあてた人々——バビロニア天文学と「ジグザグ関数」の発明【ノイゲバウアーを読む④】