
宇陀松山城跡を歩く 〜歴史と遺構を訪ねて〜
宇陀松山城とは
宇陀松山城は、南北朝時代(14世紀半ば)に宇陀郡の国人「宇陀三将」の一人、秋山氏によって築かれました。はじめは「秋山城」と呼ばれ、標高473mの古城山頂に立つ典型的な山城です。
江戸時代に作成された城割図には「阿紀山城」と記されており、時代によって呼び名が変わっていたことがうかがえます。

豊臣政権期の大改修
天正13年(1585年)、豊臣秀長が大和郡山城に入部すると、秋山氏は退去。その後、豊臣家臣たちによる大規模な改修が行われ、織豊系城郭として大きく発展しました。
城主となった多賀秀種は堀秀政の弟。有力大名の親族が入ることで、この地の重要性がうかがえます。
江戸初期・廃城へ
関ヶ原の戦い後、福島高晴が城主となり城名を「松山城」と改めました。本丸御殿の造営や城下町の整備が進み、城としての完成度を高めていきます。
しかし元和元年(1615年)、大坂夏の陣で高晴が豊臣方に内通したとして改易。あの小堀遠州が城の破却を担当し、宇陀松山城はその歴史に幕を閉じました。
その後と現在
廃城後も城下町は栄え、江戸時代には織田信雄の子孫が宇陀松山藩を治めました。
昭和・平成の発掘調査では、総石垣や特徴的な虎口が発見され、2006年に国史跡に指定されています。出土した鬼瓦などは3Dデータとして公開されており、当時の装飾を詳しく観察することができます。

登城記
2025年8月13日、薄曇りで気温も和らいだ日に訪れました。夏の城跡歩きにはありがたい天候です。

城跡の入口は整備されていますが、本丸まではしっかりとした山登りになります。リュックと軽登山靴で足元を固めていったのは正解でした。
本丸跡は草地と石垣のみ。しかし宇陀の町並みを遠望できる要害の地形は、かつての威容を十分に想像させてくれます。発掘調査中のため説明板や保護柵が設けられており、将来の復元への期待が高まりました。
アクセス情報
- 所在地: 奈良県宇陀市大宇陀
- 最寄り: 近鉄榛原駅からバスで約20分「大宇陀」下車、登山口まで徒歩約15分
- 所要時間: 登り約20〜30分
おまけ:出土鬼瓦のデジタルデータ
出土した鬼瓦や瓦片の3Dモデルが「Sketchfab」で公開されています。QRコードからアクセスすれば、当時の装飾を手元で細かく観察できます。大和郡山城や高取城の復元事例とあわせて、今後の整備が楽しみな城跡です。