きりしまノート

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「ありえない数」を受け入れた瞬間、世界が拓けた——虚数と岡潔博士の情緒数学【標準宇宙論⑩】
数学者・岡潔博士(1901–1978、1973年京都にて)。和歌山県紀見村(現・橋本市)の山里で「多変数複素関数論」の三大問題を解き、フランスの数学者カルタンに「岡なくして現代数学はない」と言わしめた。「数学とは情緒の表現である」の言葉で知られる(Wikimedia Commons)
宇宙・物理2026-05-04

「ありえない数」を受け入れた瞬間、世界が拓けた——虚数と岡潔博士の情緒数学【標準宇宙論⑩】

前回は「微調整問題」と「人間原理」の話で、答えのない問いを抱えるところで終わりました。今回はその続きとして、ある読者の方から教わった素晴らしい視点をご紹介します。

📝 NOTE

「あり得ない数(虚数)を受け入れたから、その後の数学は大いに発達した。同じことが物理の世界でも起きるんじゃないか」

これ、本当に深い洞察だと思います。歴史を振り返ると、人類は 「ありえない」を受け入れたとき に、何度も大きな飛躍を遂げてきました。今回はその物語をたどってみます。

二乗するとマイナス1になる「あり得ない数」

中学校で習った計算を思い出してください。

2 × 2 = 4
(-2) × (-2) = 4

どんな数でも、二乗すれば必ずプラスになります。だから「二乗するとマイナスになる数」なんて、存在しないはずです。

ところが16世紀、イタリアの数学者カルダーノが3次方程式を解こうとしたとき、計算の途中で 「マイナス1の平方根(√−1)」 が現れてしまったんです。

カルダーノは戸惑いました。「こんな数は存在しない。でも、ここに『あるとして』計算を進めたら、最後にはちゃんと現実的な答えが出てくる」。

彼はこの不思議な数を 「数の中にある幻のようなもの」 と呼びました。

その後、デカルトがこれを揶揄して 「imaginary number(想像上の数)」 と名づけます——これが「虚数」の語源です。最初は侮蔑的な響きの名前だったんですよ。

オイラーの「世界一美しい式」

虚数は当初、「使えるけど信用できない」道具として扱われていました。

ところが18世紀、スイスの天才オイラーが、信じられないほど美しい式を発見します。

📝 NOTE

e^(iπ) + 1 = 0

「気にしなくて大丈夫です」と言いたいところですが、この式の凄さだけはお伝えしたい。

e   → 自然対数の底(数学の基本定数)
i   → 虚数単位(√-1)
π   → 円周率
1   → 加法の単位
0   → 加減の中心

数学に出てくる最も基本的な5つの数が、たった一つの式の中で完璧に結びついているんです。多くの数学者が「世界で最も美しい式」と呼びます。

虚数 i は、もう「想像上の数」ではなくなりました。実数と同じ世界に住み、世界を記述する本物の言葉になったんです。

紀見村から世界へ——岡潔博士のはなし

虚数を使った数学は、その後さらに発展しました。**「複素関数論」**という分野です。複素数(実数と虚数を組み合わせた数)を使って、世界を記述する数学。

そしてここに、日本が世界に誇る天才が登場します。

岡潔(おか きよし、1901–1978)——多変数複素関数論の世界的権威。

岡博士は、和歌山県の紀見村(現在の橋本市)の山里で育ちました。京都帝国大学を卒業後、たった一人で当時の世界中の数学者が解けなかった超難問に挑み続けます。

「多変数複素関数論の3大問題」

岡博士が挑んだのは、多変数複素関数論の3つの大問題——20世紀前半、世界中の数学者が手を焼いていた難問でした。

📝 NOTE

簡単に言えば、複素数が1つの変数の世界でうまく機能することは知られていたけれど、それが2つ以上の複素変数になると、まったく違う難しさが現れる——その難しさを解明する問題でした。

岡博士はこれに、1936年から約10年がかりで取り組み、ついにすべて解き明かしました。

研究の場は、紀見村の山の中。論文を一冊、また一冊と、独自に書き続けた

フランスから「奇跡の論文」と呼ばれた

岡博士の論文を読んだフランスの数学者アンリ・カルタンは、こう述べたと伝えられています。

📝 NOTE

「岡氏の研究なくして、現代の多変数複素関数論はありえなかった」

カルタンは、岡博士の理論をもとに自身の理論(カルタンの定理)を作り上げました。日本の山里から書かれた論文が、世界の数学を変えたんです。

「数学とは情緒の表現である」

ここからが岡博士の真骨頂です。

普通、数学者は「論理」「厳密性」を語ります。でも岡博士は違いました。彼の最も有名な言葉——

📝 NOTE

「数学とは情緒の表現である」

情緒とは、日本語特有の繊細な意味合いを持つ言葉。「心の奥に湧くもの」「美しさを感じる感覚」のことです。岡博士は、数学を論理だけでなく、情緒で捉えていたんですよ。

紀見村の山に分け入り、座禅を組み、情緒を澄ませることで難問を解いていった——これは世界の数学史を見渡しても、極めて異色の数学者像です。

岡潔数学体験館——博士のふるさとに

実は今、岡博士の偉業を伝える施設が、橋本市に設けられています。

岡潔数学体験館——2024年4月、博士ゆかりの柱本地区の柱本小学校の教室を改修して開館しました。高校生以下は入館無料です。

📝 NOTE

柱本小学校の中に体験館がある

これって、すごく素敵なことだと思いませんか。岡博士が育った地で、子どもたちが日常的に博士の遺産に触れられる。「数学は情緒だ」と言った博士が、一番喜びそうな形での顕彰です。

ただ、この施設のことや岡博士の功績は、地元でもまだあまり知られていない——というのが現状のようです。世界的な数学者なのに、日本では決して有名ではない。

これは少し、もったいないですよね。だから、この記事がほんの少しでも岡博士のことを伝えることになれば嬉しいです。

物理学でも繰り返される「不可能の容認」

さて、話を物理に戻します。

虚数の歴史と同じことが、物理学でも何度も起きてきました。「ありえない」を受け入れた瞬間、世界が拓けた瞬間——いくつかご紹介します。

①ディラックの「反物質」

1928年、英国の物理学者ディラックは電子の運動を記述する方程式を作っていました。すると、計算の中に負のエネルギーを持つ解が現れてしまった。

普通なら「無視する」ところです。でもディラックは受け入れました。「もしこの解が本物なら、電子と反対の電荷を持つ未知の粒子が存在するはずだ」と。

通常の電子      → 負の電荷
予測された粒子 → 正の電荷(反電子=陽電子)

そして1932年、陽電子(反物質)が実際に発見されました。ディラックの「ありえない解」が、現実だったんです。

②ホーキングの「虚数時間」

ビッグバンの瞬間(特異点)は、現在の物理学では計算が破綻する場所です。ホーキングはこれを乗り越えるため、大胆な発想をしました。

📝 NOTE

「時間を虚数にしてみよう」

実数の時間では破綻する計算が、虚数の時間に置き換えると、きれいに解ける。ホーキングは、虚数時間で見れば「宇宙には始まりも端もない」と主張しました。

これも「あり得ない時間」を受け入れたから見えてきた風景です。

③量子力学そのもの

そして極めつけは——量子力学のシュレーディンガー方程式には、虚数 i が直接含まれていることです。

電子の波動関数 → 虚数を使わなければ書けない
量子の世界    → 複素数なしには記述不可能

つまり、量子力学は虚数なしには成立しないんです。「想像上の数」と侮蔑されていたものが、いまや宇宙の最も基本的な仕組みを記述する言葉になっている。

まとめ:「不可能を一時的に許す勇気」

歴史を振り返ると、ある共通のパターンが見えてきます。

時代受け入れた「ありえない」結果
16世紀二乗してマイナスになる数(虚数)複素数論の誕生
1928年負のエネルギーの解反物質の予言と発見
1920年代観測できない波動関数量子力学の確立
20世紀後半虚数の時間宇宙論の特異点問題への新視点

ありえないと思って退けず、いったん受け入れて計算してみる——その勇気が、何度も世界を拓いてきたんです。

岡博士の言葉でいうなら、これは「情緒」の働きかもしれません。論理の枠を超えて、何かを直感的に受け入れる感覚。それは決して論理を否定するものではなく、論理がたどり着けない場所への入り口なんです。

だから、今の物理学にも

ハッブル張力。暗黒物質の正体。暗黒エネルギーの本質。微調整問題。

いま物理学が抱える未解決の謎たちは、もしかしたら——

📝 NOTE

私たちが「ありえない」と思って排除している何かを、まだ受け入れていないから解けない

のかもしれません。

未来の物理学者が、私たちが今「ばかげている」と感じる仮定を受け入れて、新しい突破口を開く。歴史を見れば、それが何度も繰り返されてきたことです。

不可能を一時的に許す勇気」——これこそが、科学を前に進める力なんですよ。


最後に: 今回の記事のきっかけをくださった読者の方に、心から感謝します。「虚数を受け入れた数学が、その後大いに発展した」というご指摘から、岡潔博士のお話、そして物理学への類比へと、自然につながっていきました。

岡潔博士の故郷・橋本市の岡潔数学体験館、機会があればぜひ訪ねてみてください。世界に誇る天才が、日本の山里でどのように研究を進めたのか——その空気に少しでも触れられたら、きっと数学への見方が変わると思います。

岡博士、もっと多くの人に知られてほしいですね。

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