きりしまノート

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旅先で聞いた話・歴史の断片・宇宙や図形のこと。おもいつくままに。

標準宇宙論に刺さった「とげ」——ハッブル定数とJWSTの衝撃【標準宇宙論⑧】
JWST(ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡)が初めて撮影した深宇宙——銀河団 SMACS 0723。重力レンズ効果で歪む遠方銀河の中に、ビッグバンから数億年後の「ありえない銀河」がいくつも見つかっています(NASA/ESA/CSA Webb)
宇宙・物理2026-05-03

標準宇宙論に刺さった「とげ」——ハッブル定数とJWSTの衝撃【標準宇宙論⑧】

前回はシリーズの締めくくりとして、ビッグバンから現在、未来までを振り返りました。「これで標準宇宙論はだいたい完成」——そんな印象を持たれたかもしれません。

でも実は、教科書はまだ書き換えられている真っ最中なんです。

完成したと思われていた標準宇宙論に、今いくつもの「とげ」が刺さっている。今回は、宇宙論の現在進行形の最前線をご紹介します。

教科書が揺れている

宇宙論の標準モデルは「ΛCDM(ラムダ・シーディーエム)」と呼ばれます。Λ(ラムダ)は暗黒エネルギー、CDMは暗黒物質を意味します。第6回までで見てきた、

  • ビッグバンで始まった
  • 膨張は加速している
  • 暗黒物質と暗黒エネルギーで宇宙の95%ができている

これらをひとつのモデルにまとめたものです。とてもよくできていて、長い間「ほぼ正しい」と信じられてきました。

ところが2010年代後半から、観測技術が飛躍的に向上したことで、このモデルでは説明できない現象がいくつも見つかってきました。

とげ①:ハッブル定数の食い違い

第3回でご紹介した「ハッブルの法則」、覚えていらっしゃいますか?「遠い銀河ほど速く遠ざかる」という関係です。その比例係数がハッブル定数でした。

このハッブル定数の値を、2つの方法で測ると——値が一致しないんです。

📝 NOTE

観測方法によるハッブル定数の食い違い

  • 近くの銀河(セファイド変光星+Ia型超新星)から測定 → 約 73 km/s/Mpc
  • CMB(宇宙マイクロ波背景放射)から計算 → 約 67 km/s/Mpc

約9%の差。これは「測定誤差」では説明できないレベルなんです。

これをハッブル張力(ハッブル・テンション)といいます。

📝 NOTE

ちょっと補足:「Mpc」って何?

Mpc = メガパーセク(100万パーセク)という距離の単位です。

1パーセク ≈ 3.26光年。語源は「年周視差(parallax)が1秒角になる距離」——地球の公転を物差しにした距離単位です(第1回の三角測量の発展形ですね)。

1 Mpc ≈ 326万光年。銀河間の距離を測るのにちょうどいいスケールなんです。

つまり「73 km/s/Mpc」は——1 Mpc 離れるごとに 73 km/s ずつ速く遠ざかるという意味。ハッブルの法則がこの単位ひとつに凝縮されているんですよ。

近くの宇宙を見ると → 速く膨張している
遠くの(古い)宇宙を見ると → ゆっくり膨張している

なんでこんなことが起きているのか? 観測技術が間違っているのか? それとも、宇宙の膨張の仕方が時代によって変わってきているのか? 標準モデルでは説明できないんです。

とげ②:「宇宙は回転している」という大胆な仮説

このハッブル張力を解決するために、いくつかの新しい仮説が提案されています。その中でも特にユニークなのが——

📝 NOTE

「宇宙全体がゆっくりと回転している」

という仮説です。

私たちは長らく、「宇宙はどの方向にも一様」と考えてきました(第3回の宇宙原理)。でも、もし宇宙全体に微弱な回転が含まれていたら?

回転していると、観測する方向によって時間の進み方がほんの少し違ってきます。これは特殊相対性理論で予測される効果です。この効果がハッブル定数の食い違いを説明できる可能性が、近年の研究で示されつつあります。

仮説のたとえ話をするとこんな感じ。

📝 NOTE

巨大なメリーゴーラウンドの上にいると想像してください。中心に近い場所と、外側で、時間の進み方がわずかに違って感じられる。

もし宇宙全体がゆっくり「回って」いるなら、私たちが見る「近くの宇宙」と「遠くの古い宇宙」では、時間の物差しが少しずれているかもしれない。

ただし、これはまだ仮説段階です。本当に宇宙が回転しているのか、回転しているとしてどのくらいの速さなのか——確かめるには、もっと精密な観測が必要です。

でも「もしかしたら宇宙は回転しているかも」って、ロマンがある仮説だと思いませんか?

とげ③:JWSTが見た「大人すぎる」初期銀河

2021年に打ち上げられた**ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)**は、人類史上最大の宇宙望遠鏡です。これがビッグバン直後の宇宙を観測したところ、ありえない光景が広がっていました。

ビッグバンから3〜5億年後の宇宙
→ 標準モデルの予測:星がぽつぽつ生まれ始めた頃
→ JWSTが見たもの:すでに大規模な銀河が存在

簡単に言えば、初期宇宙の銀河が**「大人すぎる」**んです。

普通、銀河は何十億年もかけてじっくりと成長します。星を作って、星を集めて、合体しながら大きくなる。それが標準モデルの理解です。

ところがJWSTが見つけた銀河の中には、ビッグバンから数億年しか経っていないのに、天の川銀河に匹敵するほど星質量を持つものがあったんです。

これは「子どもが3歳で大人と同じ体つきになっている」ようなもの。標準モデルでは「時間が足りない」現象なんです。

とげ④:超大質量ブラックホールが早すぎる

JWSTの衝撃はもうひとつあります。それが超大質量ブラックホールの問題です。

宇宙の各銀河の中心には、太陽の数百万倍〜数十億倍もの質量を持つ巨大なブラックホールがあります。これらは何十億年もかけてゆっくり成長してきた——というのが定説でした。

ところがJWSTは、ビッグバンから5億年〜10億年後の若い宇宙にも、すでに太陽の数億〜数十億倍の超大質量ブラックホールがあることを発見しました。

標準モデル:ブラックホールは少しずつ物質を吸い込み数十億年かけて成長
JWSTの発見:宇宙誕生から5〜10億年で、すでに巨大なブラックホールが存在

これも「時間が足りない」問題です。普通の成長モデルでは、こんな短時間で巨大ブラックホールが完成するはずがないんです。

これを説明するために、新しい仮説がいくつも登場しています。

  • 直接崩壊:星を経由せず、ガスが一気にブラックホールに崩壊した
  • 原始ブラックホール:ビッグバン直後にすでに存在していた
  • 暗黒物質と関係がある:知られていない物理が関与している

正解はまだわかっていません。

ΛCDMモデルの見直し議論

これらの「とげ」をどう解釈するかは、研究者の間でも意見が分かれています。

ひとつの方向性は——標準モデルの基本は正しいけれど、細部を調整すれば良いという立場。 もうひとつは——もっと根本的な物理学の見直しが必要という立場。

たとえば2024年には、**DESI(暗黒エネルギー分光装置)**という観測プロジェクトが、「暗黒エネルギーは時間とともに変化している可能性がある」という結果を発表しました。これが本当だとすると、ΛCDMモデルの「Λ(暗黒エネルギーは一定)」という前提が揺らぐことになります。

「とげ」が増えれば増えるほど、新しい物理学が必要になってきます。今、宇宙論は大きな転換点にいるのかもしれません。

科学は「未完成」だからこそ面白い

ここまでお読みになって、不安になられたかもしれません。

「教科書が間違っているの?」 「これまでの宇宙論は嘘だったの?」

そんなことはありません。これまでの観測と理論が、9割以上は正しい。だからこそ「ここがおかしい」と気づけるんです。

そして大事なのは——これは科学の失敗ではなく、進化の過程だということ。

ニュートン力学は、アインシュタインの相対性理論で書き換えられました。でもニュートン力学が「間違い」だったわけではありません。日常の世界ではちゃんと使えますし、宇宙ロケットだってニュートン力学で打ち上がっています。

標準宇宙論も同じです。これまでの理解は大筋正しい。でも「もっと深い真実」がその先にあるかもしれない——それを探しているのが今の宇宙論なんです。

教科書が完成したらつまらない。未完成だからこそ、明日も新しい発見がある

宇宙論はまだ書き換えられている真っ最中。次の章を書き加えるのは、もしかしたら今、星空を見上げているあの子なのかもしれません。


シリーズ完結にあたって

第1回からここまで全8回、長い旅にお付き合いいただきありがとうございました。

宇宙の距離を測ることから始まり、ビッグバン・暗黒物質・暗黒エネルギーを経て、最後は「教科書がまだ書き換えられている」というところまで来ました。

宇宙はとても大きくて、わからないことがまだまだたくさんあります。でも「わからない」を一つずつ解いていく営みこそが、科学の本質なんです。

これからも、星空を見上げるとき、たまにこのシリーズで読んだことを思い出していただけたら嬉しいです。

そして次は、また別のテーマで——図形のはなし、光のはなし、時間のはなし——いろいろな科学の旅にお誘いできたらと思います。

📚 シリーズ:標準宇宙論

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